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生い立ちの記 (5歳 バラック) [日記]

掘っ建て小屋.jpg  この小屋は無人の温泉小屋ですが、この小屋よりもお粗末でした^^;

私は第二次世界大戦中の昭和18年4月生まれ。

満州で生まれ、昭和22年最後の引き揚げ船「日本丸」で、4歳にして初めて

日本の地を踏みました。


私は同年代の方々とは、全く違った体験の持ち主です。

だからといって、吹聴する様なことでもありませんし、変わった体験をしているからといって、

威張れることでもありません。

『この時代に育った子には、こんな珍しい体験をしたヤツも居るんだ』

ぐらいの気持ちでお読み頂けたら幸です。



4歳(引き上げ)

4歳の頃は、以前書きました。もし、よろしければ ↓ (こちらから)

http://go-go-akira.blog.so-net.ne.jp/2006-06-24

但し、少しばかり長いですよ。



今日は、私の『 5歳』です。

時折、年を追って書いていきたいと思っています。




引き上げた当初は、母の里とはいえ家や土地があるはずもなく、

南九州、『宮崎市役所前の大きなグラウンドの片隅に、

小さなバラック(掘っ建て小屋)を建てて住んでいた』という記憶があります。


電気はなく、母はグラウンドの端にあった水道から水を汲んで煮炊きをしていました。

夜になると、屋根の代わりに張った板戸の隙間から星が見える、我が家は

『ホームレス』さながらだったのです。


宮崎市は空襲に遭っていないので、比較的裕福な人も居たと見えて、

子供達の格好は引き揚げ者の私達兄弟とは雲泥の差がありました。

ある日、幼稚園児の一団がバラックの脇を通って、どこかへ歩いて行ったのです。

当時、私と同い年であったはずの幼稚園児達は、紺の半ズボンに黒のストッキングを穿き、

白い付け襟が付いた紺のジャケットを着ていました。

房が下がった角棒を被っていたのですが、それを羨望の眼差しで見送った覚えが

あります。

生きるだけで精一杯の当時、当然のことながら幼稚園などには通わせては貰えませんでした。


時々、ボーイスカウトが市役所のグラウンドを使って活動をしていましたが、

近くへ行って見ていると、指導していた大人に追い払われました。

私たち兄弟をみて、まるで犬か猫でも追い払うように

「あっちへ行け!シッ!シッ」と手の甲で払われたことも。


子供心にも『大人になったら、子供を必ず幼稚園に通わせて、ボーイスカウトに入れる!』

そう思ったのでした。



理由は解りませんが、実は私はこの年に一度父について上京しています。

父は職探しにでも行ったのか、それとも当時勤めていた会社からの出張だったのか?

考えたくはないですが、或いは「口減らし」のために子供が居ない伯母夫婦と私の

『縁組み』の為だったのかもしれません。


九州の田舎から鈍行で、一体何時間掛けて上京したのでしょうか?

3等列車の座席におとなしく座っていたのですが、煤煙が目に入ってものすごく痛い思いをした

事が思い出されます。

「言うことを聞かなかったら、向こうに置いてくるぞ!」行く前から脅かされていました。

東京駅から『省線』(今のJR・・・恐らく山手線)に乗って上野駅に行き、

そこで私を迎えに来ていた母方の伯母夫婦に預けられました。


「やっぱり、こういうことだったんだ!」そう思いました。

『必ず帰ってやる』駅から伯母の家までの道のりを、ことこまかに覚えました。

『貰われてはならじ』と、伯父、伯母の言うことは聞かない「悪い子」を演じていました。


数日後、父がやってきてなにやら話をして、その夜は伯母夫婦と酒盛り。

翌朝、私は父と一緒に帰途につきました。

子供心にも、どんなにホッとしたことか?・・・解っていただけるでしょうか?


宮崎市に帰ってしばらくすると、バラックの家を引き払って少し離れた『お寺』に

住むようになりました。

といっても庫裡に住むのではなく、お寺で使う物が山積みになっている

敷地内にあった大きな倉庫の片隅でした。

しかし、バラックよりは遙かに良く、屋根の隙間から星が見えることはありませんでした。


次に移り住んだのは市営住宅(?)

申し込んでおいて、きっと抽選にでも当たったのでしょうか?

全部で15,6棟の平屋の小さな家がチマチマと並んでいる、田圃に囲まれた田舎でした。

6畳と4.畳半の2間に、「へっつい」がついた土間の台所がある『文化住宅』でしたが、

市内を流れる大淀川の畔で土地が低く、台風が襲来するたびに土手が決壊して床上浸水しました。


そして、もうすぐ通うことになる小学校は2里(8㎞)も離れていたのです。








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コメント 7

myumyu

アキラさん 4,5歳の事良く憶えていますね、キット子供心に衝撃的な事だったのでしょうね、今では考えられない事がその当時は沢山あったんでしょうね、私はあまり覚えていません、主人は昔の話、よく憶えていて、色々聞くのがとっても楽しいです。たとえば長男だけ食事のおかずが違って必ず卵が付く、(主人は7人兄弟の4男、姉3人の末っ子)その当時は自分も食べたくても、言えないんですね、そのせいか、今でも卵が大好きです。

by myumyu (2008-09-02 21:01) 

denn

なんか^^しみました^^
by denn (2008-09-02 21:13) 

しゃくとりむし

アキラさんご苦労なさったんですね。
私は良く祖母や母に戦時中の話を聞いてはいたのですが、
自分が子供を持って初めて、当時の祖父母がいかに必死になって
子供達を育てていたかが少しわかるようになりました。

今の私にあそこまで出来るか分かりません。
平和ボケと言われようと何と言われようと
戦争は起きて欲しくないと思います。



by しゃくとりむし (2008-09-02 22:24) 

たろちぅ

自分の子供の頃のコト、断片的にしか覚えてないです。
きっと、あまあまな環境だったのかな。
ケガしたとかそうゆう記憶はあるから。
アキラさんはずーっとしんどい体験だったのかな。って。

中国語の記憶はあります?
by たろちぅ (2008-09-03 08:10) 

アキラ

myumyuさん
引き揚げ者ですから、兎に角何にもない貧乏でしたが、父母はプライドだけは持ち続けていたようです。
実は、この後また転校するのですが、そこから劇的に生活が変わります。
時々書いていきますので、また読んで下さい。

母は男の子には「敬語」で接してくれました。
私たちが寝ていても、頭の方は歩かないとか気を使っていましたよ。
私は長男・・・だからよく怒られました。
「あなたが付いていて、なんですか?!」今でも耳に残っています。

by アキラ (2008-09-04 16:26) 

アキラ

dennさん

滲みましたか?^^
まぁ、こんな経験も、今の私の血肉になっているのでしょう?
当時は子供ですから、貧乏なんて一向に気にもしませんでしたが、
大人になるに連れて、我が家はとんでもない貧乏だたんだ!と。

しかし、貧乏貧乏と言わずに育ててくれましたので、結構お金にはルーズだったりしますが・・・^^;
by アキラ (2008-09-04 16:30) 

アキラ

しゃくとりむしさん

当時は、そんな時代だったのです。
私はその中でも特異な経験の持ち主です。
何らの脚色なしでも、哀れっぽいでしょ?
しかし、そんな悲壮感は微塵もなく育ててくれました。

戦争なんか無くてあのまま満州にいたとしたら、きっと裕福な子供時代を送っていたと思います。
そして、鼻持ちならない大人になっていたかも知れませんね。


by アキラ (2008-09-04 16:34) 

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