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「母の残像(?)」 [日記]

蓖麻子油.png 今でも「ある」みたいです・・・蓖麻子油


私は今では考えられないほど、子どもの頃には病弱だった。

それは、少なからず母のせいでもあったのではないか?と私は思っている。


私は満州生まれ・・・4歳で初めて日本の土を踏んだ。

満州という国は、余程衛生環境が悪い国だったのかもしれない。


私は子どもの頃に「生水」を飲んだことは一度もない。

家には一端湧かしたお湯を冷ました「冷まし湯」が作ってあって、それを飲まされた。

満州時代からずっと、「冷まし湯」を作ってきた・・・いつか母が言ったことがある。

大人になって何かの本で読み、驚いたことがある。

それは「お湯を冷ました水を植物に与え続けると、やがて植物は死滅する」



外から帰ってくると、いつも「顔・手・足!」

「外に出ている所全てを、石鹸を付けて洗いなさい!」と、母の怒声が飛んだ。


母は引き上げの苦労が祟って、ずっと肋膜炎を患っていた。

結核菌は表に出ないタイプの肋膜炎だったが、私が風邪を引いて一つでも咳をすると、

母は非常に神経質になった。


小学校4~5年生くらいに、ツベルクリン反応が陽転したときの母の狼狽ぶりは

今考えてみても、可笑しいくらいに異常だった。

きっと、「私のせいで、結核になった!」とでも、思ったに違いない。


私は子どもの頃、母の前ではいつも聞き分けが良く、いい子を演じていた。

『そうすることで、母が安心する』と考えていた。

しかし、いくら聞き分けがよく大人しいとはいえ、やっぱり男の子。

一歩外へ出れば、親には言えないようなこともよくやっていた。


食べるものが乏しく、甘いものなんて年に一度も口には入らなかった時代。

野山を駆け回りながら、「アケビ」「蛇イチゴ」、「桑の実」や時には「渋柿」を

腹一杯に詰め込んで・・・

喉が渇けば、道路際の酸っぱい「スカンポ」の茎を噛み砕いて、滲み出す

草の汁をすすった。

「ツバナ」や「竹笹」の若い芽を頬張り、畑では「ジャガイモ」や「サツマイモ」を

掘り出しては、泥を服の胸で落として生でかじりついた。

麦畑に入り込み、背が高い麦に隠れながら「生麦」を腹一杯食べたこともあった。

兎に角食べるものがなく、いつもお腹を空かせていて、

ろくな物は口にしなかったので、お腹はよく壊した。


我が家はよその家とは違って、一端下痢をしたら大変だった。

家には常備薬として、『蓖麻子油』(ひまし油)の瓶が置いてあって、

下痢をすると、必ずそれを飲まされた。



「蓖麻子油」は独特の臭いと油特有の飲みにくさで、兎に角 喉に入っていかない。

母が出してくれる「砂糖にまぶした梅干し」を舐めながら、一気に蓖麻子油を飲み干した。


蓖麻子油とは一体なんなのか?知らない向きも多いと思う。


蓖麻子油原料.jpg


トウゴマという植物の種子から抽出した油が、蓖麻子油(ヒマシユ)です。


蓖麻子油を飲んで僅か10分~15分くらいで猛烈な腹痛に襲われ、トイレへ駆け込むと

『水のような便』が出る、強烈な下剤。

下痢をしているのに、更に下剤を掛けて腹の中を空っぽにする・・・と言うのが母の

やりかただった。

「冷まし湯」と「蓖麻子油」は、子どもの頃の私の体を弱くしていた様な気がしてならない。


そして、蓖麻子油を飲まされた日は一日中「絶食」

次の朝から「おも湯」を少々・・・3日目ぐらいから薄塩味の「1分粥」だけ、

そして、徐々に「3分粥」「5部粥」と少しずつ「ご飯」に近くなって、

普通のご飯が食べられるのは、下痢をしてから10日後くらいだった。

その間、水分は「冷まし湯」と「リンゴの絞り汁」だけ・・・

学校へ行くにも弁当は持たせてくれないから、水筒に入れた「冷まし湯」だけを

持って行く。

「お前!また下痢か?」・・・友達にはよくからかわれて「ゲリ○○」なんて不名誉な

渾名を頂戴したこともあった。


何故かいつも、7分粥が食べられるようになると、夕食時にはバナナが半分出た。

蓖麻子油を飲む時の楽しみ(?)といえば、このこと位・・・


中学生になって、クラブ活動でスポーツをやるようになっても、まだ病弱だった。

大人になって独りで生活するようになると、一々水を湧かして冷ました水など作って

いられない。

親元を離れても最初はよくお腹を壊したし、唾も飲めないほど酷い扁桃腺炎も何度か

患った。


結婚をして、家内が作ってくれる食事のお陰で、徐々に栄養が行き渡ったのだろうか?

あまり風邪も引かなくなったし、兎に角お腹は丈夫になった。

最近では、少々古くなったものを腹に入れても、全く異常を感じない。


満州の衛生環境と日本の環境は違う・・・今でこそ、そう言えるのかも知れないが、

戦後の日本の衛生環境も、相当に劣悪だった。

未舗装の道路から舞い上がる土埃は猛烈で、あちこちにできた水たまりにはボウフラが湧き、

犬や牛馬の糞は足の踏み場がないほど、至る所に落ちていた。

道路脇のドブは灰色になって腐った水は澱み、メタンガスをブクブクと吹き上げていた。



当時は家々の便所は全て汲み取りで、中には便漕が満杯になり、

汲み取り口からは糞尿が溢れて、周りに白い蛆がゾロゾロと這い出している家もあった。

畑には、所々に「肥溜め」があって、肥料にするため糞尿を発酵させていた。

それらの周囲にまき散らされる強烈な臭いに、「大型の蝿」と「黒い便所蜂(?)」の軍団が

渦を巻いて飛び回っていて、世の中の空気はいつも強烈な臭さを

放っていたものだった。


だから、母は当時の日本を、満州の環境と重ね合わせていたのかも知れない。

劣悪な環境に神経質になっていて、よその子とは全く違う育て方をしたのだろう。



昨夜、母の夢を見た。

母は、厳しい顔をして、私にこう言っていた。・・・「顔っ・手っ・足っ!」

あと3ヶ月余りで、60半ばを過ぎようとしているのに・・・どうやら、まだ母の残像が

残っているらしい。


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たいせい

 年を経てきても親に追いつくどころか、自分の子育てなどを通して「あの時はこんな気持ちだったのか!?」と、ようやく親の気持ちがわかるように成りつつあるのが関の山の私です。
 うちは両親共に元気でまだ実感としてわかりませんが、失って初めて感じるものが多くあるのでしょうね...。
by たいせい (2008-12-15 14:40) 

plusgate

いつまでも親は親って言いますもんね。
働き始めた時や、結婚した時、子供が生まれた時、
常に親の偉大さを感じていました。
アキラさんのご家族も来年はにぎやかになることですし、
きっと、息子さんが何かを感じるはずですよ。

by plusgate (2008-12-15 17:59) 

アサギいろ

ラベルデザインはおいしい飲み物と思いますね。

それから前回の立派な庭の旅館は文化財だったんですね。
新聞を見てびっくりしました。そんなこととは知らず温泉旅館なんて・・・
失礼しました。文化財を任されるなんてすごいことです。
by アサギいろ (2008-12-15 21:36) 

mon

母は偉大ですね^^!
自分も子であり母である・・・
アラキさんのお母様はいつまでも心の中に生きてあなたを応援してくれているのでしょう^^@
by mon (2008-12-16 08:28) 

denn

オイラの母ちゃんは まだ元気で^^すけれど・・
親子で似すぎているのか?
オレは自分の母ちゃんが好きではありません^^
裏返せばすきなんでしょうが
なんのこっちゃ?
by denn (2008-12-16 22:01) 

toyo

しみじみと読ませていただきました。
どうコメントしていいのかわからないのですが・・いい話です。
ありがとうございます。
by toyo (2008-12-17 09:51) 

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